2015年09月06日

断捨離についての再考

断捨離について考えている。

考えて、考えて、
わかったことは、

東京から札幌への引越が楽だったのは、
本当に必要なものだけを持ってきたから
ということ。

= 東京の部屋をキープしているので
いらないものはそこに残りっぱなしになっているということだ!

しかし、1年半も札幌に住んでいて、
ああ、あれがあればよかったのに!と思ったことは
ウクレレ以外ひとつもない。

そう、ウクレレだけは持ってくればよかった。
荷造りをしていたのに
BFに「不謹慎じゃないか」と
激しく反対されてやめたのだった(ひとのせい顔1(うれしいカオ))。

ウクレレがあったら、どんなに心が癒されただろうか。

そう考えると、人間には
衣食中も必要だが、音楽も必要なのかもしれない。


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話はもどって、
東京の部屋にあるものは
丸ごと捨ててもかまわないほど
必要のないものだということになる。

だけど、これは確信しているんだけど、
もし、東京に戻って、それらを見たら
きっと私は捨てられないだろう。

そういうときは、自分ではない誰かに
捨ててもらったら良いのかもしれない。
何か残っているかも点検せずに、
ダンプカーでも持ってきてもらって
まるごとガタガタ捨ててもらいたい。

叔父は、祖母の家を片付けるときにそうしたと言っていた。
いい考えだと思った。


もし、東京に戻るときがきたら、
いるものだけをまず段ボールにつめることにしよう。

そして、1年半で溜まってしまったいらないものは
目をつぶって捨てることにしよう。

どうして人はものを捨てることができないかといえば、
明日も明後日も生きるつもりでいるからだと思う。

だって死ぬなら捨てるはず。

でも、もし何も持っていなかったとしても
私たちはきっとどうにかできるだろう。

この、絶対明日も生きているはずというこの自信というか
確信は、いったいどこから来ているんだろう??
でも、これがあるから生きていることができるのかもしれない。
つまり、今のようなか弱い自分が未来を知ったら
生きて行けないということなのかもな、とちょっと思う。

母のことだって、第三者が見れば
あきらかに死ぬということを示唆しているでしょう!
というようなことがタロットに出ていたのに、
私はそう解読しなかった。

でも、そうしなかったことによって
バンバンくる痛い現実になんとか対応できたのかもしれないとも思う。
これは、純粋に「母の死」のことだけを言っているのではなくて、
母の死にまつわる人間関係や金銭問題など
いろいろな大変なことについてのことだけど。

でも、それもよかったのかもしれない。
大昔のように純粋に人の死を悲しむことができるなら、
と何度も思ったけれど、
それは悲しすぎるのかもしれない。

ぐちゃぐちゃにまみれることも
あるときは必要なのかもしれないな。
そのぐちゃぐちゃさが自分の精神を守ってくれるときもあって、
今のような弱い自分にはまだそういうものが必要だから
モノも捨てられないということなのではないか
という結論…。

いや、しかし、逆にモノを捨てることから
強い精神を手に入れられるようがんばろうと思うドコモ提供








posted by R (あーる) at 21:30| Comment(0) | 手放す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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